教員インタビュー

  • 上田紀行
  • 池上彰
  • 伊藤亜紗
  • 桑子敏雄

Asa Ito

伊藤亜紗

 

私はリベラルアーツを「自由になるための技」と考えています。私たちは、多くの場合、自分の生がどのような土台のうえに成り立っているかを自覚していません。土台、つまり価値観や歴史、社会システムのことです。土台を知らないでその上に立っていることは危険です。

いつのまにか土台に生かされているだけの人生になってしまうかもしれないし、土台そのものが一瞬にして無くなってしまうかもしれない。
自由に生きるためには、まずこの土台について知ること、そして自分から土台に働きかけることが必要です。土台を変えなければ、自分の生も、この社会も変わりません。

私の専門はアートなので、講義ではアートを事例に「自由になるための技」をたくさん伝授します。しかし学びの場は講義だけではありません。リベラルアーツセンターでは、学生のみなさんがアイディアを出しあい、実現にむけて動くさまざまなプロジェクトが進行しています。他者とのかかわりあいのなかで自分の「あたりまえ」がくつがえり、知らなかった可能性が目の前にバーンと開けてくる、そんな痛快な経験を共有してみませんか。

 

 

科学とアートに潜む相違点。

科学とアートは、どちらもものをつくることに関わっています。とはいえ、つくることへの考え方はまったく逆です。理工系では、計画どおりにつくることが重視されます。つくったものも、こちらの思い通りに動くことが大切。つまり、「コントロールすること」が理工系の「つくる」なのです。

でも、アートの場合はつくる過程で見つかる思いがけない発見、つまり「偶然」の要素を大切にします。コントロールできないこと、自分でも思いがけないものができてしまうことの方が、アートにとってはわくわくするのです。

つまり、“偶然”を評価するか否かが、科学とアートの違いです。

 

偶然を知らないと畏れや共感を失ってしまう。

私の東工大での役割は、学生にこの偶然を教えることだと思っています。もちろん、コントロールは大切です。原発、道路、鉄道などのインフラがきちんとコントロールされているという信頼の上に、私たちの社会生活は成り立っています。しかし、自然や生命の根底には、人間のコントロールの及ばない領域、つまり偶然の領域があります。科学は世界を抽象化しているので、抽象化された世界だけを見ていると、人間がすべてをコントロールできるかのような錯覚に陥ってしまいます。その傲慢はいつか人間自身の首を締めることになります。理工系の学生は特に、自然や生命への畏れ、他者への共感を持っていてほしいと思いますが、そういった畏れや共感を支えているのは、自然や生命の根底には偶然があるという認識なのです。

学生は科学と向き合うとき、その科学に自分を含めません。自分を消して無心に対象と向き合うことが、客観的でいい成果技術を生むと思っているのです。もちろんそれは科学者としては正しいのですが、一方で危険な態度でもあります。自分の行っている研究が本当に社会にとって、自分にとって好ましいものなのか、という価値の問題をスルーすることにつながりかねないのです。

たとえばある学生が、「延命治療はすべきだ」という発言をしました。これは科学者としての答えですね。人間の寿命はのばせるだけのばすのがよい、つまり生命をコントロールすればするほど、それは科学の勝利になるわけですね。でも、「じゃあ、あなた自身はどうやって死にたいの?」と聞くと、「畳の上で家族に囲まれて自然に死にたい」と言うんですね。科学者として目指す未来と、自分が望む未来が矛盾してしまっている。科学にとって自分を消すことは大切だけれど、ときどきは自分を出して、自分の研究が自分を裏切っていないか立ち止まって考えてみること、これがリベラルアーツセンターのかかげる「人間性」や「社会性」の第一歩なのではないかと思います。

 

違いを生み出すことがアートの社会的機能。

2014年度の『現代アート』の講義では、教師である私がアートの見方を一方的に教えるのではなく、参加者に自由に作品を見てもらい、感じたことを言葉にし、議論することを大切に進めて行く予定です。それは、作品の見え方は、見る人によって違うことを知ってほしいからです。その『違い』が楽しいです。作品は、見え方の可能性の塊で、「これが正しい」というものはありません。アートのコミュニケーションは不思議で、みんなの意見がバラバラであればあるほど楽しいんですね。これは、会議など合意に至ることを目的とするコミュニケーションとは決定的に違う点です。異なる意見が仲良く共存している状況を作り出すことが、アートの社会的機能といえます。

ですから、感想に間違いはありません。「作品のことを一番分かっているのは作者だ」というのはよくある誤解です。そうなのであれば、作者は作品を人目に触れさせる必要はないのです。作品は、展示をし、鑑賞者や批評家からの評価を聞くためにつくられているのです。

 

作品を語ることはコミュニケーションの第一歩。

ただ、感想に間違いがないとはいえ、慣れていないと「グッとくる」とか「なんとなくいい」といった曖昧な表現になりがちです。それでは人に伝わりません。「気持ち悪いのに引きつけられる」とか「矛盾しているのが心地よい」とか、人間の感情は複雑です。その複雑さを表す言葉を自分の中に探し求める過程で、これまで使ったことのなかった語彙が体の中から引っ張り出されて、表現力が高まります。言葉にすることで、他人に伝わるだけでなく、自分にとっても自分の考えが明らかになります。

作品を語ることは、コミュニケーションの第一歩です。東工大の学生は、自分の言葉で自分の興味のあることを話すのは得意です。意外とロマンチストで、専門のことを話し出すと止まらない人が多いです。次はそれを、相手に伝わる言葉で話せるようになってくれればと思っています。

 

今の自分がいる場所とは、別の現実を想像しよう。

もうひとつの講義『芸術と社会』では、学生に作品のプランを作ってもらいます。作品作りには、恥ずかしさを伴います。でも恥をかかないと成長しませんし、それを乗り越えて作品作りやプロジェクトを行うと、自信がつきます。

リベラルアーツとは、語源をたどればリベラル(=自由な)+アーツ(=技)です。私はリベラルアーツとは「自由になるための技」だと解釈しています。つまり、自分に与えられた生き方や社会にただ従うのでなく、それとは異なる、別の生き方や社会を自由に構想する技です

それを想像できると「自分の人生、こんなものかな」というのは思い込みだとわかります。だから、教養を身につけるということは、自分の可能性を知る技術を手に入れるということで、その可能性の中からなにをどう選んで生きていくか、悩むことになるでしょう。教養には、人を迷わせる面もあるんです。

であるなら、教養を学んでも意味がない、そんなことに時間を使うくらいなら、専門を勉強したいと考える学生が多いのでは?という指摘を受けることもあります。でも、本当にそうでしょうか。私は、そう口にする学生はどこかでそういった言い方を知って、「そういうものか」と思い込み、使っているだけだと思います。

 

来たれ、アート大嫌いな学生諸君!

ただ「この講義は自分には関係ない」「この話は聞いても意味がない」と決めるのが早すぎる学生が少なからずいるのは気になっています。即断は、要領は良いかも知れないけど、だんだん自分との関係が見えてきたり、面白くなっていったりする可能性を捨てることです。もったいないなと思います。

私の講義は、アートに嫌悪感を持っている学生に受講してほしいです。嫌いと好きとは表裏一体なので、一か所でひっくり返ると、大好きになってもらえると思っています。 ぜひ、リベラルアーツセンターによる講義を受けたうえで、専門科目にも力を入れてください。

 

 

 

 

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